ウォルト人生史

ウォルトの生涯

はじめに

こんにちは、マルです。見てくれてありがとうございます。

今回はウォルト・ディズニーが、ディズニーを立ちあげる前の話をしていこうと思います。

ウォルトってもう名前を聞くだけで、なんか夢とか魔法とかそういうイメージが浮かぶじゃないですか。でも実際のウォルトって、そのイメージとはかなりかけ離れた人生を送ってたんですよね。

就職先をクビになって、会社を二回潰して、信頼してた仲間には裏切られて。華やかな夢の世界の裏に、そういうドロドロした話がけっこう詰まってるんです。

今日はそのあたりを、ウォルトがディズニーカンパニーを立ちあげる前、つまり彼の生まれた頃からハリウッドのガレージに辿り着くまでの流れで話していこうと思います。

本作は可能な限り客観的に、ディズニー好きに寄りすぎず、解説していくことを目標としておりますが、ウォルトに関しては様々な記載があり、一部誤った情報や偏った情報があるかもしれません。ご了承ください。

夢の原点

ウォルト・ディズニーが生まれたのは1901年12月5日、イリノイ州シカゴです。4人兄弟の末っ子で、兄のロイとは後にディズニー社を一緒に立ちあげることになるんですが、まあそれはまた後の話。

https://d23.com/this-day/walt-disney-is-born-in-chicago-illinois/

ウォルトが4歳の時、家族はミズーリ州のマーセリンという小さな農村に引っ越します。ここでの生活が、後のウォルトの世界観にめちゃくちゃ大きな影響を与えるんですよね。
動物を観察して絵を描いて、近所の人に褒めてもらって、お医者さんに絵を買ってもらったりして。
ウォルト自身も後年、「マーセリンでの経験が人生で一番大切な学びだった。それはこれからもきっと変わらない」って言葉を残しているくらいです。

そしてこのマーセリン時代、近くに大きな鉄道が走っていて、それがウォルトの鉄道好きの原点になっています。後のディズニーランドに繋がる種もここに在ったわけです。。アニメだけじゃなくて、パーク事業の種まで、この農村生活の中に詰まってたんですよね。
ちなみにワールドバザールの街並みもマーセリンをモデルにしていますし、東京ディズニーランドには「マーセリンサロン」というラウンジ兼フロントもあります。

https://www.waltdisneymuseum.org/

話を戻しましょう。ただ、この幸せな農村生活は長くは続きませんでした。
父親のイライアスが体調を崩して農場の経営もうまくいかなくなり、一家はカンザスシティへ移ることになります。

そこでウォルトを待っていたのが、6年以上続く新聞配達でした。毎朝3時半に起きて、4時には新聞を受け取って、学校が始まる前に全部配り終える。冬でも夏でも毎日です。しかも稼いだお金のほとんどは父親に取られてしまう。学校の成績も当然ガタ落ちで、まあそりゃそうですよね、毎日寝不足なんですから。

これ、ウォルトにとってかなりのトラウマになっていたみたいで、人生の後半になっても「配達が終わらない」夢を見てうなされることがあったそうです。

でもそんな生活の中でも、ウォルトはいろんなものへの興味を失いませんでした。
土曜日にはアートスクールでカートゥーンを学んで、貴重な余暇時間には、マーク・トゥウェインやロバート・ルイス・スティーヴンソン、チャールズ・ディケンズなどの物語を読み漁っていました。この読書体験、実は後のディズニー作品にダイレクトに繋がっていて、スティーヴンソンからは「トレジャーアイランド」が、ディケンズからは「オリバー&カンパニー」がアニメ化されています。マーク・トゥウェインはディズニーランドの「マーク・トゥウェイン号」やトムソーヤ島の名前の由来にもなっていますね。

https://movies.disney.com/oliver-and-company

ただウォルトは、いわゆる本の虫ではなかったみたいで。
むしろライブのエンタメの方が好きで、サーカスや無声映画、舞台演劇なんかによく足を運んでいました。コメディの舞台では自分でステージに上がることもあって、友達とチャップリンの寸劇コンテストに出て4位になったりもしています。賞金25セントも受け取りました。

ちなみにリンカーンの誕生日には全身リンカーンのコスプレで学校に行ったりもしていたそうで、なんかもうこの時点でウォルトの個性がにじみ出てますよね。

この演劇経験って、実は後のアニメ制作にすごく活きています。
ディズニーの監督だったベン・シャープスティーンは「彼の演じる能力とストーリーを伝える力は本当に素晴らしかった」と語っています。実際、ウォルトはアニメを作る前にキャラクターの動きや表情を自分で実演してスタッフに見せていたそうで、ミッキーの声を担当していたことはよく知られていますが、声だけじゃなくて体全体でキャラクターを表現する人だったんですよね。

そして15歳のとき、兄のロイに15ドルを出してもらって列車内の販売員に挑戦するんですが、これがあっさり失敗。でもこの時からすでに「ウォルトがアイデアを出して、ロイが投資する」という二人の関係性ができていたわけです。
そして、この兄弟のパターン、この後もずっと続いていきます。

戦場での経験と最初のクビ

カンザスシティでの日々を過ごしていたウォルトですが、時代は第一次世界大戦のただ中にありました。16歳になったウォルトは、愛国心からどうしても参加したくて、年齢を偽って赤十字に志願します。こうしてウォルトは単身、フランスへと渡ります。

https://www.waltdisney.org/blog/walts-patriotism

現地での役割は救急車の運転手でした。ただのドライバーかと思いきや、ウォルトはここでもアーティストで、救急車の側面に漫画を描いて、その一部は軍の新聞にも掲載されています。戦場でも絵を描いてたっていうのが、なんともウォルトらしいですよね。

この海外での一人暮らし、ウォルトにとってはかなり大きな経験だったみたいで、後に「あの経験が自立と自己への信頼につながった」と語っています。親元を離れて、異国の地で一人で生きるってやっぱり全然違いますよね。

あとこの時期、ウォルトは飛行機にめちゃくちゃハマって、お金を渡してフランスの軍機に乗せてもらったりもしていました。このあたりからテクノロジー全般への強い興味が育っていったとされています。後年のウォルトがテーマパークに最新技術をどんどん取り入れていく姿勢って、実はこの頃の経験が土台になってるんですよね。

ちなみにミッキーの初作品である「プレーン・クレイジー」も飛行機テーマです。
これもウォルトの飛行機好きが影響しているのかもしれません。
ミッキーの初作品が実は蒸気船ウィリーではないことも、後ほど話していきます。

そして1919年、ウォルトは帰国します。実家に戻ったはいいものの、厳格な父親とすぐに喧嘩になって家出。上の兄夫婦の家に転がり込みます。

帰国後のウォルトが目指したのは新聞漫画家でした。兄のロイに口を聞いてもらって、いくつかの新聞社に漫画を持ち込むんですが、これが全く相手にされない。どこ行っても門前払いです。

ちなみにここで面白い小ネタがありまして、この時ウォルトが就職を断られた新聞社のひとつが、話すと長くなるのですがなんやかんやあって、約80年後にウォルト・ディズニー・カンパニーに買収されることになります。

脱線が多くてすみません。
話を戻しましょう。新聞漫画家の夢は叶わず、またもやロイに頼んで今度は農業関連の広告を手掛けている「ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオ」にコマーシャルイラストレーターとして潜り込みます。

ここでコツコツ仕事をしていたウォルトでしたが、現実は厳しく、会社の業績が悪化すると、あっさりクビにされてしまいました。

最初の起業と挫折

クビになったウォルト、次に何をしたかというと、なんと起業します。

一緒に会社をクビになった同僚に、アブ・アイワークスという人物がいました。ここでちょっとこの人について話しておきたいんですが、このアブ・アイワークスというのが、実は後のディズニーを語る上で絶対に外せない人物なんですよね。ミッキーマウスを描いていたのは誰かって話になると、厳密に言えばウォルトではなくてこのアブなんです。アニメーターとしての才能が圧倒的で、「絵の天才」と言っても過言じゃない人物でした。

ちなみにここで一つ重要なことをお伝えしておくと、ウォルト・ディズニーはアニメーターではありません。絵は描けますが、それが本職じゃない。じゃあウォルトって何者なのかっていう話ですが、ウォルトは後に自身でこんな発言を残しています。

“My role? Well, you know I was stumped one day when a little boy asked, ‘Do you draw Mickey Mouse?’ I had to admit I do not draw anymore. ‘Then you think up all the jokes and ideas?’ ‘No,’ I said, ‘I don’t do that.’ Finally, he looked at me and said, ‘Mr. Disney, just what do you do?’ ‘Well,’ I said, ‘sometimes I think of myself as a little bee. I go from one area of the Studio to another and gather pollen and sort of stimulate everybody. I guess that’s the job I do.’”
私の役割?ある日、小さな男の子に『ミッキーマウスを描いているの?』と聞かれて、返答に困ったことがある。もう絵は描いていないと認めるしかなかった。『じゃあ、ジョークやアイデアを全部考えるの?』『いや』と私は言った、『それもしていない』。すると彼は私を見上げてこう言った。『ディズニーさん、じゃあ一体何をしているの?』『そうだね』と私は言った、『自分を小さなミツバチだと思うことがある。スタジオのあちこちを飛び回って花粉を集め、みんなを刺激する。それが私の仕事だと思う。』

アブアイワークスとはこの後、本当に色々なことがあるのですがそれはまた別の機会に。
さて、クビになった二人は意気投合して、人生初の会社「アイワークス・ディズニー・コマーシャル・アーティスト」を立ち上げます。
ただ、現実はそう甘くない。
営業力もなければ実績もない、若造二人に仕事が来るわけがありません。

設立からわずか一ヶ月で、事務所の家賃すら払えない状況に追い込まれます。

結局ウォルトは生活のために会社を放置して、別の会社にサラリーマンとして働きに出ることになりました。後にアブアイワークスも同じ会社に就職しています。
起業から一ヶ月でのサラリーマン転身です。これがウォルトの人生初の起業でした。

ただ、ウォルトの場合、この失敗で終わりではなくて、次のステップへの踏み台にしていったんですよね。そしてその新しい職場で、ウォルトはアニメーションという世界に本格的に足を踏み入れることになります。

第二の会社員人生

サラリーマンに戻ったウォルト、次に就職したのが広告会社「カンザスシティ・スライド・アド社」でした。そしてここで、ウォルトは運命の出会いを果たします。それが「アニメーション」です。

当時のアニメーションは、切り絵を動かすような、今から見るとかなり原始的なものでした。でもウォルトはそこに無限の可能性を感じて、文字通り狂喜します。この人、ほんとうに好きなものへの熱量がすごいんですよね。

ちょうどこの頃、「セルアニメ」と呼ばれる新しい手法が流行り始めていました。マット&ジェフや、マックスフライシャーの「Out of Inkwell」といった作品がヒットしていて、業界全体がその波に乗り始めていた時期です。ウォルトはこのセルアニメに完全にハマります。

めっちゃ面白い。現代でも通用する。フライシャー天才。

仕事が終わった後、彼は独学でセルアニメの研究を始めました。図書館でアニメーションの本を借りて、会社のカメラを拝借して、自宅のガレージを仮設スタジオにして。軍で働いた時の貯金をつぎ込みながら、夜な夜な短編アニメを作り続けました。副業というか、もはや本業より力入れてたんじゃないかっていうくらいの熱の入れようです。

そしてウォルトは会社に対して「うちもセルアニメの手法を取り入れるべきだ」と提案します。ただ当時の経営陣の答えは「NO」。

「だったら、自分でやる。」

ということで、ウォルトは会社をやめました。
この人、本当に自分の理想を曲げないんですね。
普通だったら「まあ会社の方針だし仕方ないか」ってなりそうなもんですけど、ウォルトにはそういう妥協が全くできなかったみたいです。

退職したウォルトがまず動いたのは、カンザスシティの興行主だったフランク・ニューマンを説得することでした。ニューマンは3つの劇場を持っていて、そこに短いアニメーションを組み込んでもらう交渉をしたわけです。

「ニューマン・ラフ・オ・グラム」と名付けられたこのシリーズは、広告と時事的なユーモアを組み合わせた内容で、地元の風刺ネタなんかも盛り込まれていました。現存しているのはパイロット版のみで、速写画家の手が風刺的なイラストを描いて、最後にアニメとして動き出すというフォーマットになっています。地元の警察の腐敗を題材にしたシーンもあって、ウォルトが単独で作った数少ない現存映像のひとつとして今も残っています。

で、ここからがちょっと面白いんですけど、このニューマンへの営業に使ったアニメ、実は辞めた会社の機材を使って作ったものなんです。しかもニューマンを口説き落とした後、前の職場のアニメーターまで引き抜いています。笑

まあ正直、倫理的には「うーん」ってなる部分もありますよね。笑 
でもこの時代のアニメ業界って、それくらい強引にいかないと生き残れない世界だったというのも事実で。礼儀正しく順番待ちしてたら、チャンスはどんどん先に行ってしまう。ウォルトはそれを本能的にわかっていたんだと思います。このあたりの話は、また別の動画でも詳しく掘り下げてみたいと思っています。

ともかく、こうしてウォルトは自分の作品を世に出すことに初めて成功しました。まだ小さな一歩ですが、これがすべての始まりです。そして次の章では、この勢いに乗ったウォルトが、ついに自分の会社を再度、立ち上げることになります。

倒産とハリウッドへ

さて、ニューマン・ラフ・オ・グラムが好評を博したウォルト。劇場向けの幕間映像や予告スライドの依頼も舞い込んできて、順調に見えました。この勢いに乗ったウォルトは、次の野心的な挑戦として「アニメーション童話」に取り組むことを決意します。

当時ニューヨークでは、ポール・テリーという人物が「イソップ寓話」のパロディアニメを作って人気を集めていました。ウォルトはその影響を受けながらも、ただのパロディじゃなくて、童話の古典を時事的な出来事と絡めて現代風にアレンジするというアプローチを考えます。後にワーナー・ブラザーズとMGMのアニメスタジオを共同設立することになる高校生、ルドルフ・アイジングの協力も得ながら、6ヶ月かけて最初の童話アニメを完成させました。

ちなみにウォルトが最初に作ったとされている作品のモチーフは「赤ずきんちゃん」です。今でも映像が残っていて見ることができるので、気になる方はぜひ調べてみてください。

作品が完成すると、ウォルトはすぐに地元の投資家に相談して出資金を集めます。完全に起業家の動きですよね。そしてその資金をもとに「ラフ・オ・グラム・スタジオ」を正式に立ち上げました。

スタジオを立ち上げたウォルトは、営業担当と一緒に配給会社探しに奔走します。
ほとんどの会社には相手にされませんでしたが、一社だけ手を挙げてくれたのが「ピクトリアル・クラブ」でした。
6本の短編アニメの契約を締結、契約金は11,000ドル、現在の価値で約21万ドル相当です。ただし前払いはたったの100ドルで、残りは全作品を納品した後の1924年1月1日まで待つ必要がありました。

契約からしばらくして、ピクトリアル・クラブが倒産します。残りの代金は一切支払われず、スタジオの財政難は一気に深刻化。スタッフも次々と離散していきました。

それでもウォルトは諦めません。地元カンザスシティの歯科医から依頼が来た時、スタッフを集めて「トミー・タッカーの歯」という作品を完成させ、500ドルを得ました。

普通に考えたら、そのお金は借金の返済に充てますよね。でもウォルトはそうしませんでした。その500ドルを、新しい作品の制作に全額突っ込んだんです。

その新しい作品というのが、実写とアニメを融合させたデモ映画「不思議の国のアリス」でした。

当時、フライシャー・スタジオの「インクの壺から」というシリーズが人気を集めていました。これはアニメのキャラクターが実写の世界に登場するというコンセプトの作品です。ウォルトはそのアイデアを見て、「逆をやったらどうだろう」と考えました。
実写の人物がアニメの世界に入り込むという、全く新しいアプローチです。

主演には幼いバージニア・デイビスという女の子を起用し、興行収益の5%を彼女に支払う条件で契約しました。
そして同年5月、ウォルトはニューヨークの映画配給業者マーガレット・ウィンクラーに配給を求める手紙を送ります。

しかし返事を待つ間も、スタジオの財政は底をつきていきました。そしてついに1923年7月、ラフ・オ・グラム・スタジオは連邦破産法の適用を申請します。人生二度目の倒産です。ウォルトはこの時、21歳です。

倒産したウォルト。でも彼の手元には、未完成の「不思議の国のアリス」のフィルムがありました。

生活費を稼ぐために赤ちゃんの映像を撮影する仕事をこなして、持っていた映画カメラを売って、ようやく片道の列車賃を工面します。
そしてウォルトは、その未完成のフィルムをスーツケースに詰めて、ハリウッドへと向かいました。全財産は数十ドル。それだけです。

ちなみにこの時の話、数十ドルと大きな夢をスーツケースに詰めてハリウッドに向かうウォルトをテーマにした歌があるので、気になる方はぜひ聴いてみてください。

ウォルトがロサンゼルスを選んだ理由は二つありました。一つは、結核で療養中の兄ロイがそこにいたこと。もう一つは、実写映画の監督になることを夢見ていたからです。

そう、この時点でのウォルトの目標はアニメではなくて実写映画の監督だったんです。
ところが現実は厳しくて、スタジオに片っ端から断られ続けます。またしても門前払いです。

仕方なく、持ってきた「不思議の国のアリス」の配給先を改めて探し始めたウォルト。なかなか成果が出ない中、ある日ニューヨークの映画配給業者マーガレット・J・ウィンクラーから連絡が入ります。

「ネガ1本につき1,500ドルを支払う……納品次第即時」

この電報を受け取ったウォルト、すぐに療養中のロイのもとへ「一緒にやろう」と飛んでいきます。
ウィンクラーはちょうどその時、手がけていた二つのシリーズの権利を失いそうになっていて、新しいコンテンツを必死に探していたタイミングでした。需要と供給がぴったり合った瞬間だったん。

そして1923年10月、両者は「アリス・コメディ」6本の制作契約を締結。
さらに6本ずつ2シリーズのオプションも盛り込まれた、なかなか大きな契約です。

こうしてウォルトとロイは、映画制作のために1923年、「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」を設立します。これが後のウォルト・ディズニー・カンパニーです。

最初の拠点は、月10ドルで借りた不動産事務所の裏の空き部屋でした。今や世界中にテーマパークを持ち、数々のスタジオを傘下に抱えるエンタメ界の巨人企業は、たった月10ドルの空き部屋からスタートしたわけです。

バージニア・デイビスとその家族も月100ドルの契約でハリウッドに呼び寄せて、不動産事務所から3ブロック離れた空き地を実写撮影の拠点にしました。デイビスは後に当時をこう振り返っています。近所の子どもたちが好奇心から集まってきて、実写パートの遊び相手やエキストラとして出演していた、と。
その際、ウォルトは一人ひとりに50セントを払っていたそうです。

スタジオ全体のスタッフ、セット製作者、大工、カメラマン、脚本家、監督、それを全部ウォルトとロイの二人だけでこなしていたそうです。

そして1924年にはカンザスシティからアブ・アイワークスも呼び寄せて、チームを強化。1926年にはハリウッドに最初の正式なウォルト・ディズニー・スタジオが開設されました。

数十ドルと未完成のフィルムを持ってハリウッドに流れ着いたウォルトは、なかなか大きな契約と小さなスタジオを構えるまでになったわけです。
でもこの先に待っているのは、さらに大きな挫折と、そして奇跡のような逆転劇です。

ウィンクらー

ウォルト・ディズニー・カンパニーの前身となる「ディズニー・ブラザーズ・スタジオ」を創設したウォルトたちは「Alice’s Comedy」の制作に全力で取り掛かります。

2023年末には一作目である「Alice’s Day at Sea」を作り上げました。

今回はきちんと代金も振り込まれ、安心するウォルト達でしたが、一点問題が生じ始めます。
それは、ウィンクラー側との対立でした。
ウィンクラーは2023年、チャールズ・ミンツという人物と結婚します。
このミンツという人物にウォルトや従業員は沢山悩まされることになるのです。

とはいえ、最初のころははまだ衝突が少ない方で、作品について「ギャグをもっと入れて」と細かく注文を受けていたくらいでした。(ウィンクラーからすると、Alice’s Wonderlandの人気がイマイチなのは短編特有のギャグ要素が少ないからだと思っていたようでした。一理ありそう。)

また、ウィンクラーサイドからの要望でAlice’s Comedyは段々「フェリックス・ザ・キャット」に似てきます。

これがフェリックス・ザ・キャット。ユニバとかで見たことある人もいますかね。当時はディズニー作品なんかよりコイツがとにかく人気でした。

というのも、この「フェリックス・ザ・キャット」もウィンクラー配給だったのです。
実際に、フェリックス・ザ・キャットに似ている「ジュリアス・ザ・キャット」というキャラクターもAllice’s Comedyの主要キャラとして登場します。

https://d23.com/julius-first-disney-character/


この類似に関して、当時を振り返りヴァージニア・デイヴィスは「全ての作品は先人の何かしらの影響を受けているでしょう?ミッキーだって、オズワルドの影響を沢山受けているじゃない」と発言しています(記事)。

他にも、先に挙げたポール・テリーの「イソップ物語」を非常に参考にして作られたことが作品からも見て取れると思います。

初めて動物を擬人化した作品。ポール・テリーも凄い。

Alice’s Comedyが軌道に乗り始める頃には、ウォルトの配給提出相手はウィンクラーというよりもミンツになっていました。
そして彼らは、徐々に実写よりアニメ部分を増やしたいという気持ちを募らせていきます。
というのも、当時の人気作品は既にフル・アニメーションになっていたのです。
そして、カンザスシティーからラッフォグラム社時代の従業員兼友達である、ルドルフ・アイジングなど強力メンバーを呼び寄せます。

そして反対に、ヴァージニア・デイヴィスに対して契約条件も変更し、彼女の出演が徐々に減っていきました。
この時、ある程度揉めたことが予想されますが、後年もヴァージニアとウォルトの関係性は良く、よくスタジオでお互い昔を振り返ったりしていたようです。(一方、ヴァージニアはミンツをとても嫌っていそう)

オズワルド誕生

ミンツは野心家でした。ミンツは更に配給事業を成功させるために、全国配給網をもつ大手配給会社のFBOと提携することにしました。
この提携はウォルトにとってビッグチャンスでもあり、厳しい条件でもありました。提携契約の中に、「アニメを独占にするために、一度アニメ配給をストップしてほしい」という条件があったのです。

その為、ミンツはウォルトへの支払いも渋るようになり、1本1800ドルから1500ドルに変更しました。ウォルト達は腹立ちながらも、他に配給してくれるところもなかったので条件を飲むしかなかったのですね。
元よりミンツに対して作品に口うるさく言ってくることを含めて腹立っていたでしょうから、相当苦汁をなめたでしょうね。

この条件を飲む変わりにウォルトは以下のような条件をミンツにつけました。

  1. コメディーに関することはウォルトに一任する。
  2. グッズ・新案商品・新聞漫画にAlice’s Comedyが使用される場合は、利益を双方折半。
  3. Alice’s Comedyの商標、著作権は契約のもとにミンツが買い取ったものを除き、ウォルト側の所有とする。

この頃から、①グッズなどの利益シェア割合と②商標/著作権の扱いが話題に上がっていることが非常に興味深いですね。

FBOとの提携で地位があがったミンツは、ユニバーサルともアニメーション契約を結ぶことに成功しました。そして、この案件をウォルトに依頼しました。

ユニバーサルは「もう猫は観飽きているだろうから、ウサギで頼む」と依頼。これを元にウォルトはアイワークスと共にキャラクターデザインを練り、いくつかをユニバーサルに送りました。その中で選ばれたのが、みんなが知っているオズワルドでした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BA%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%88

そして、ユニバーサルの宣伝部長が「オズワルド」と命名しました。

これを元にウォルト達は一作目を作り始めますが、この1作目「Poor Papa」がミンツとユニバーサルで大不評。「まとまりのないギャグの連続。繰り返しも多い。オズワルドも太っていて鈍い」という圧倒的批判を受けてしまい、「これでは使えない」とまで言われてしまいました。

この批判を受け、2作目「Trolley Troubles」はオズワルドの性格を元気で冒険好きに変えた。ちなみにこの2作目は、ミンツが1作目で参考にするように提案した俳優ハロルド・ロイドの主演作品「Luke’s Trolley Troubles」からつけられています。「ラッキーウサギのオズワルド」というタイトルはこの2作目のイメージから作られました。

この2作目が好評で、早速全国配給を始めました。
作品は、お客さんからも好評で当時のニュースは「このままの水準を維持するなら、このシリーズはあらゆるタイプの劇場で人気を博すことになるだろう」と書いてあります。

この成功の背景にはユニバーサルによる「ライセンス・グッズ戦術」もありました。当時、マシュマロ入りチョコレートや、バッジ、ステンシルセットなどオズワルドグッズが売り出されていきました。もちろん、ウォルトもAlice’s Comedy時代からこの構想はありましたが、アリスはそこまでの人気がなかったこと、そして、そんな余力がウォルトたちになかったことで実現していませんでした。

ユニバーサルの方は、「フェリックス・ザ・キャット」で効果を実証済みだったので、オズワルドでも出来たわけです。

また、フェリックス・ザ・キャットとオズワルドの実写のモデルはともにバスター・キートンでした。

現代でもオラフは、声を当てている「ジョシュ・ギャット」がかなりモデルになっていることを踏まえると、この頃から実写モデルを一人キャラクターに吹き込むモデルは変わっていないんですね。面白いですね。

成功する会社、不満が溜まる従業員

1927年2月ごろ、オズワルドの人気によって自らのアニメーションフォーマットにもウォルトは自信を持ってきました。

それまで、他のスタジオを手探りで真似ていたウォルトでしたが、オズワルドではユニバーサルによって広まり、この時には既にアメリカで人気になっており、「これだ」と手ごたえを感じていました。

しかし作品が上手くいく一方、スタジオにはヒビが入り始め、従業員はひとり、ひとりと去り始めました。
ウォルトは非常に厳しいことで有名でした。
居眠りを数回したルドルフ・アイジングを解雇したり(まあこれは分かるが)、いじめともとられるような厳しい指導をしたり…
その上、ウォルトは時々「君たちは給料のもらいすぎだ。学ぶことが沢山あるのに」と口にしており、従業員の中にはウォルトを憎んでいる人もいました。

そしてこの軋轢が、あの大事件へとつながっていきます。

従業員とオズワルド喪失

1928年2月、オズワルドの契約更新の日がやってきました。

ウォルトは1本あたりの契約金を上げようと意気込んでミンツとの交渉に挑みます。
しかしミンツから告げられた一言で、彼は驚愕するのです。

「1本あたりの契約金は大幅に下げる。この条件を飲まないならば、君の従業員を引き抜いて彼らにオズワルドを作ってもらう」

ウォルトは焦ります。
焦って、他の配給会社に営業に行きますが、そこで分かったのは”オズワルドの権利はウォルトが持っていない”ということでした。

ユニバーサルが「うさぎのショートアニメを作る」という案件を作り、資金を出し、キャラを選び、名前を決め、明るい性格を決め、おおまかな作品の方向性を指示していたことを考えると、いわゆるチーフプロデューサーらしいことをしているので、権利がユニバーサルにあることはそこまで変な話ではない気もしてしまいますが、当時のウォルトは驚愕しました。

その上、従業員を殆ど引き抜かれたというのは彼にとって相当辛いものだったのでしょう。
親友のアブ・アイワークスや数人以外、ほぼ全員引き抜かれたのです。
これに関しては、ウォルトサイドから見ると「沢山学ばせてやったのに裏切者」。従業員サイドから見ると「あんだけ厳しくしやがって。絵も下手で描いてないくせにクレジット全部のって。そりゃ良い条件出たらそっちに行くわ」という感じだったと考えられます。

結局、ウォルト全てはトはオズワルドと大半の従業員を失うことになりました。

すべては一匹のネズミから始まった

大きなものを失い、失望の中にいたウォルトでしたが、原動力は失いませんでした。
1928年3月、ウォルトは、兄のロイにオズワルドを失うまでの経緯を話しました。しかしロイが気を落とす前に「新しいシリーズをまた作るから」と言ったのです。

実質、アニメスタジオは殆どミンツのものになっていましたが、一応まだオズワルド作品を3作品仕上げミンツに納品しなければなりませんでした。そして、まだウォルトからみて「裏切者」であるアニメーター達も6月まではスタジオにいました。

さて、ミッキーがどのように生まれたのか?
これには諸説あるのです。

ある説では、「ミンツとの交渉後、つまりオズワルドと従業員がウォルトの手から離れることになった会議の後、自宅へ向かう電車の中でコンセプトを思いついた」と。
他の説では、ラッフォ・グラム時代にウォルトの机によく現れていたネズミをモデルにしたとか。
その他には、先述の「イソップ物語」を作っていたポール・テリーのネズミのキャラを真似たのでは、という説もあります。

確かにミッキーみたいなネズミいますね。

まあ、ある意味、全部正しいのでしょう。

ちなみに最初、ミッキーは「モーティマ・マウス」という名前になる予定だったのを妻のリリアンが「気取っているからミッキーの方が良いんじゃない?」と言って改名された話は有名ですね。

その後、ミッキーのコンセプトを元に、ウォルトとアイワークスは部屋にこもり、こっそり新しいキャラクターを考え始めていました(誰かがノックしたら、オズワルドの絵に変更していたそうです)
2人はチャールズ・リンドバーグが大西洋の横断飛行に成功したという最近の出来事をもとにストーリーを作り上げ、アイワークスがアニメーションを作り始めました。アイワークスは1日700枚、合計14,400枚の絵を描き上げ、パイロットアニメを爆速で完成させていきました。(アニメーションは1秒で24コマなので、10分間で14,400枚の絵を描き上げたわけですね)

しかしアニメは絵を描くだけでは完成しません。
絵をトレスしたり、べた塗したり、、、そういう工程が必要です。
ウォルトの妻リリアンと、ロイの妻は彼女らの日中の仕事を終えるとウォルトのガレージに通い夜遅くまで作業をしてくれていました。

そうして、全員の2週間の頑張りの結晶で出来た作品…
これがミッキー登場第1作目の「Plane Crazy」です。

ミッキーの最初の評価

今や大人気のミッキーですが、実は最初は全く売れませんでした。
ウォルトは出来上がった作品を元に様々な配給会社に売り込みにいきますが、全く相手にされません(なので1作目は配給されず、当時は世に出ませんでした)。
MGMスタジオに持ち込んだときは「まあ、出来はいいけどミッキーなんて誰も知らないし…」ということを言われたわけですね。

ミンツやユニバーサルの後ろ盾を失ったウォルトやアイワークスの作品を評価してくれる人は相当少なかったわけです。

2作目「Gallopin Gaucho」も同じ評価でした。

案外、今は大人気のミッキーは最初は全く人気じゃなかったということですね。
しかし、もうオズワルド無き今、なんとか新しいスターキャラクターを生み出すしか道がなかったウォルトは常に「どうすれば良いか」と考えていました。

そんな時、世界はトーキー映画が流行しはじめていました。
そして、「これからの時代はサイレントアニメではない!音楽が大事だ!」とウォルトは思っていたのです。

そして、ミッキー3作目である「蒸気船ウィリー」の構想が始まりました。

実はもうすでに音楽入りアニメはウォルトのスタジオ以外も、挑戦していたのですがウォルトが初めて「クオリティ高くアニメとサウンドを合わせた」ということになります。

ウォルトは音楽に関しては無知だったので、音楽教師の母を持つアニメーターに協力してもらい、メトロノームを使って、音楽と絵を合わせる方法を考えていきました。
そうして、絵の部分を完成させたウォルト。

ウォルトは試作品を携えて、ニューヨークへと向かいました。

当時のハリウッドでは、トーキー技術はすでに大手映画会社に独占されており、ウォルトにはもはや使える状況にありませんでした。そこでニューヨークへ活路を求めたわけです。

ニューヨークでは、映像に合わせてオルガンを演奏していたカール・ストーリングスと出会い、仲間として迎え入れることができました。しかし録音技術の確保という問題は依然として解決しておらず、フォックスなどとも交渉を試みましたが、まともに相手にされませんでした。

そのような状況の中で出会ったのが、パワーズという人物です。パワーズは大編成のオーケストラをウォルトに紹介するなど協力的に見えましたが、その代償として15,000ドルもの費用を負担させた上に、配給権利まで手放させてしまいました。

当時のウォルトは、自信作を持ち込んでも全く評価されないという経験が重なり、すっかり自信を失っていました。「配給してくれるところであればどこでもいい」とさえ思い詰めていたことでしょう。そうした心理状態が、この不利な契約を招いた一因だったとも言えます。

あまりにも不当な内容に、兄のロイは激怒しました。「自分が何を契約させられたか分かっているのか」とウォルトに迫ったといいます。

それでも制作は続きました。妻とのデートに使っていた車まで売り払い、なんとか映画を完成させたのです。

なお、蒸気船ウィリーはトーキーアニメの最初の作品というわけではありません。
すでに名前があがっているマックス・フライシャーがアニメと音楽を融合させた作品を既に作っていました。

ただ、ウォルトのものを非常にクオリティーが高かったのは事実です。
蒸気船ウィリーがニューヨークの劇場で公開された後、その地域では圧倒的な評価を得ました。

しかし当時は全国ネットのテレビは無く、その上ユニバーサルのような大手配給と組めていたわけではないので、ミッキーがアメリカ中を巻き込んだヒットになったとは言えませんでした。

ミッキーを広めるのに一躍買ったのは「グッズ」でした。
フェリックス・ザ・キャット以降、ライセンス料無料でグッズ展開してもらい映画が配給される前に先んじて話題作りをしていく、ということを行うのがセオリーとなってきておりました。
こうしたクオリティーの高い蒸気船ウィリーはグッズ戦術も相まってニューヨークから徐々に、ゆっくりとアメリカ中に広まっていきました。

こうした経緯があり、1929年ウォルトは社名を「ウォルト・ディズニー・プロダクションズ」に改め、多角的経営を目指していきます。

ミッキーの生みの親(仮)との喧嘩別れ

ミッキーが人気になってくると、ウォルトはパワーズに対して不満を持ち始めました。ミッキーが人気になり配給先が以前より容易に見つかるようになり、交渉力を持つと「どうしてこんな不利な契約を結ばされているんだ?」と思うようになったわけですね。

事実、ウォルトからオズワルドと従業員を引き抜いたユニバーサルからも声がかかっていました。もちろんはウォルトはユニバーサルとの確執があったため、これを断っています。

そうした状況の中、大手のコロンビアが配給を申し入れてきます。
これはウォルトにとって大変好都合でした。ちょうど、パワーズとの配給契約の更新時期だったウォルトは弁護士を連れてパワーズとの配給契約を更新しないための交渉に臨みました。

そこでパワーズから、「もし配給更新しないのであれば、アブ・アイワークスを引き抜く」と言われたんですね。

アブ・アイワークスは実質ミッキーを描いていた天才アニメーターです。ウォルトとすべての苦楽を共にしてきた親友とも言えますね。

しかし、ウォルトのアブへの扱いは中々ひどいものがありました。
アブから見ると、「実質絵を描いているのも、ミッキーを生み出したのも俺があってからこそなのに、全部ウォルトの手柄にしていく、、、、手は動かさないくせに、偉そうに細かく指図はしてくる、、、、その上、扱いもどんどん雑になっていく、、、何なんだアイツ、、、、」となったわけです。

こういう作業は適材適所。最初に会社を共同で作った時から、ウォルトは絵が下手だったからこそ、ウォルトが配給契約を取ってきたりして、絵はアブが描く、という役割分担にしていたのに、いつの間にかウォルトが命令して、アブは動く、みたいな役割になっていったように感じたことでしょう。

これだとアブがミッキーのコンセプトも思いついたことになっていますね。何が真実なのか。

そんな中、アブはパワーズから「自分のスタジオやったらどう?応援するよ」と言われて飛びついたわけです。

結果、アイワークスはウォルトの元を去り、自分のスタジオを始めました。そしてカエルの「フィリップ・ザ・フロッグ」シリーズを始め、ハワードのおかげで大手配給網を持っているMGMにて公開されました。

親友との喧嘩別れ

さて、大戦力だったアブ・アイワークスがいなくなり、ディズニー社にまた存続の危機が・・・・来ることはありませんでした。

それどころか、ウォルトが更に指揮を取れるようになったり、若手にもチャンスが回ってきたことでスタジオは更に活気づいていくことになったのです。

1930年、ウォルトはコロンビアとの配給を切り、さらに条件の良かったユナイテッド・アーティスツと配給契約を結ぶことになります。

United Artsts Pictureの文字がありますね。

3倍近くの制作前渡金を手に入れたウォルトはアニメーションのクオリティー向上に励みます。
その中で生み出されたのが「ペンシル・テスト」でした。
ペンシル・テストは現在でもウォルト・ディズニー・カンパニーで行われているもので、完成品のイメージが付きやすくするために、白黒の状態で一度思ったように絵が動いているか確認する作業のことです。

この時代のペンシル・テストは「ムヴィオラ」という機械を使って行われていました。

また、この時、ウォルトは徹底した分業化を進めていきました。
アニメーターの下に「アシスタントアニメーター」という役職を設け、いわゆる中割の役目を彼らに任せることにしました。

また、アニメーションを描くことよりもギャグを専門とした”ストーリー&ギャグ担当者”をフルタイムで雇うようになりました。

こうして分業化を進めた結果、スタジオには以前よりも余裕が生まれました。
そして出来た余裕を使ってウォルトはアニメーターたちの育成に乗り出します。

希望するスタッフに美術学校に通わせ、送り迎えもウォルトの車を出していました。
給料はアイワークスのスタジオの半分にも満たしませんでしたが、殆どアニメーターの養成学校のような役割を果たしたわけです(この時にディズニースタイルも生まれていきました)。

こうした育成によりディズニースタジオは以前にも増して様々な表現を取り入れることができるようになり、カラーアニメ「花と木」や「三匹のこぶた」を生み出していきました。
この花と木は、初めての3色カラーアニメで、この技術を使いディズニースタジオは特許を出願。1935年までの独占使用権を取得しました。

初めての3色アニメ。2色アニメは既にあったので「世界初のカラーアニメ」という表現は間違えだよ。

そしてキャラクターライセンス料をもらう契約交渉によりウォルトやロイは無給時代を終え、ある程度豪華な家に住むことが出来始めていました。

親友カムバック

ウォルトからの扱いに不満を持ち、スタジオを辞めたアイワークスでしたが、そのあとの経営は上手くいきませんでした。
彼が作ったカエルのキャラクターは人気がなかったのです。

確かに暗い、、、暗いかも、、、確かにウィリー見てる方が幸せかも、、、、

元々大人しい性格のアイワークスは観客が求めている「明るいギャグ」を作るのが不得意だったのか、、、原因はわかりませんがとにかく全く人気が出ませんでした。

つまり、天才的に絵が上手くても、配給先があっても、「人が取り込まれるキャラクター」を生み出せなかったら結局ダメだったわけですね。
まあ、この辺りは今でも同じことが言えそうですね。

アイワークスは最初の頃、自身が全ての指揮を執れるように、自身が重要作業を行い(中割まで描いていたらしい)、単純作業要員だけを雇いました。
しかしそれでは、やはり軽快な作品を作れず全く人気が出ません。
あまりに人気が出ないので、パワーズにアドバイスされ優秀なアニメーターを雇いましたが、そうすると徐々に自分のスタジオのはずなのに大人しいアイワークスは立場を失っていってしまいました。

そうして、1941年、ディズニースタジオに戻ります。(ウォルトとどのような話し合いの末戻ったのかの詳細はわかりません)。
但し、この時アイワークスはアニメーターとしてではなく、技術者として戻りました。

そして遂に生まれた「白雪姫」

この時すでにミッキー&フレンズの成功で、アカデミー賞受賞も果たし圧倒的な業界地位を持っていたウォルトでしたが、彼にはまだ夢がありました。

…というのも実はこれまでウォルトが作っていたのは映画本編の前の数分間の「短編アニメ」でした。(100周年記念映画「ウィッシュ」でいうところの「One Upon a Studio」のような位置づけ)

本編映画の「おまけ」ではなく、映画本編自体を作ってみたい….そう強く思うようになります。そうすれば更なる新しいアニメーションの可能性を開けるようになる…と思ったのでしょう。

こう思うところがウォルトの凄いところなんです。
この時代、ウォルトよりも前にある程度成功しお金が手に入った先人は、アニメ作りの新しい可能性を探るのを早々に辞めてしまい、目先のお金稼ぎの為に効率最優先になったり、最悪の場合飲みや異性関係におぼれていきました。
※とはいえ、効率はウォルトも追及していたことに留意しましょう。
全ては「バランス」なのです。

ウォルトはきっと本当に新しいこと、このころはアニメーションが大好きだったのでしょう。
結局、「好きは強し」なのです。
その上、効率と質の追求、そして好きなことを極めるオタク気質を持ちつつ人付き合いの上手さや明るさもある、頑固で芯をブラさないけれどお客さんがどう考えるかを大事にする、芸術も好きだけど商業性を決して忘れない。
この人、バランス力が凄いんですね。

ともかく、世界で初めての長編アニメ映画への長い挑戦を始めたウォルトでしたが、

著者プロフィール

TDRだけじゃなくて映画やウォルトや海外パークも好きなDオタを増やしたいというエゴで動画をあげています。

メインは映画関連と海外ディズニー。
たまに思想の強いディズニーの歴史モノを潜らせています。

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ウォルトの生涯ディズニーの歴史
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